新たな物資配送のニーズを探る

公益社団法人 中越防災安全推進機構 対談 公益社団法人 中越防災安全推進機構 対談
(聞き手)NPO法人コメリ災害対策センター 古澤

設立のきっかけは中越大震災の発生です。

古澤 まずは中越大震災から13年が経過し、この被災・復興にかかわる経験を全国に発信しておられる「中越防災安全推進機構」の設立のきっかけなど教えていただけますか。

諸橋 きっかけは、2004年10月23日に発生した中越大震災です。
 中山間地域を中心に大きな被害を受け、どのように復旧復興をするかという議論になった際に、長岡市の三大学、高専、国立研究所、商工会議所などを中心に産官学が協力して復興に当たろうと考えました。
 そしてそれらを取りまとめ、地元の力を結集するための組織体として、中越防災安全推進機構が設立されました。 当初は復興基金を原資に各大学で取り組む復興に必要な研究に対して、研究費を配分していました。それから4年、5年経ち、住民自らがどのような活動をしていくかというようなテーマに移り、学の研究機能から、被災地の住民に寄り添いながら、それまでと異なる支援制度を県に要望したりする形になりました。

古澤 最初は復興に必要な研究の予算配分をメインに活動されていたのですね。最近はどのような活動をされているのですか。

諸橋 組織を立ち上げた当初は防災ではなく、いかに地域を復旧復興させるかというのがメインでした。それが、中越大震災で得た経験をどう活かしていくかという視点となり、その経験を他の地域にも伝え、地域の防災力を底上げするための機能も担うようになりました。

河内 元々は記憶や記録を残すのと、復興をどうやって支援していくかという事をしていました。支援する場合も、どちらかというと住民へのエンパワーメントのような性格が大きかったです。住民の皆さんが主役で、行政任せではなく自分達の地域を良くしていかなければならないという所を基本に、外部の方々の協力を受け、中越地区は復興してきました。

諸橋 中越大震災から13年経ち、機構も11年目となります。
 現在は中越大震災の経験や教訓を伝えるメモリアル回廊を運営するチームと、我々のような防災チーム、地域の復興、活性化を考えるチームの3つのチームがあり、それらを束ねる本部とで構成されています。

古澤 昨年、熊本地震という大きな地震災害が起きました。
 コメリ災害対策センターでは、当日の夜から物資供給の要請をいただき、避難所に必要な毛布や水、使い捨て食器等をはじめ、復旧作業用のスコップや土のう袋等、全65品目の物資を供給しました。熊本地震での対応では、被災地域からの要請も勿論ありましたが、被災地域と応援協定を締結している他県の自治体から、「被災地へ応援物資の供給を行なって欲しい」という要請が特に多かったように感じます。中越防災安全推進機構としては、当時はどのような活動をされたのですか?

河内 熊本地震に関しては長岡市と協力して、避難所の運営支援をさせていただきました。災害の際には、避難所の支援に入るか、ボランティアセンターでコーディネートをすることが多い他、仮設住宅の支援をさせていただくなど、中越大震災の教訓を活かしながら支援活動を行なっています。

緊急物資配送トラック

古澤 新潟の中越大震災、東北の東日本大震災、神戸の阪神淡路大震災の被災した地域の方々も同じような活動をされているのですか。

河内 そうですね、神戸の方もいれば、阪神淡路大震災に関わっていた栃木や名古屋の方もいます。元々阪神淡路大震災が原点なのです。その方々が中越に来て支援をして下さって、我々はその時に学ばせていただき、動きながら枠が増えていったというイメージです。

諸橋 熊本地震の際にも、過去の被災地の様々な支援団体が恩返しということで、現地に行っていました。熊本は熊本で、そういうチームが新たに出来ていくのだと思います。

河内 ただ、地元密着型の災害支援団体というのは意外と少ないです。災害が起こるとすぐに動き出し、支援をやったら引き返して行きます。我々は、地元がある中で中越の復興を地域の皆さんと一緒にやってきました。
 支援活動をどのように地域に引き継いでいったら良いのか、どうやって地域の人達に主役を担っていただくのが良いか考えながら支援ができるというのは、中越の強みなのかなと思います。やはり地域外の方がずっと入っていても、結局そこの地域のためになりませんので。
 中越の地域の皆さんが、支援をされる側から支援をする側に転換出来たというのが一つ大きい所だと思います。「私達はかわいそうな被災者なんです」、「忘れないで下さい」とずっと言っているのではなく、自分達でやれることはやり、「今では地震があったお蔭でこんな繋がりも出来たし、こういう事が出来るようになったんだ」という事を次の被災地の皆さんに言っていただけると、「ああ、うちらも頑張ってやろうか」という所に繋がっていくのではないでしょうか。

中越防災安全推進機構 地域防災力センター長 諸橋 和行様 中越防災安全推進機構 地域防災力センター長 諸橋 和行様

古澤 被災者の将来像が見えるということは、非常に大きいと思います。
 実際、中越大震災に関しては、完全に復興したと思ってよろしいのでしょうか。

諸橋 被災地域の方々は、10年の区切りの時に復興宣言をしました。個人個人で見れば差があるとは思いますが、地域全体として見れば今でも被災地を引きずっているというよりも、一区切りついているように感じます。
 ただこれは数字だけで追えば、震災後に人口が半分くらいになって今でも戻らず、年間で一人も子供が生まれなかったという地域もあります。そしてそういう現実、厳しい状況を見て、従来の指標からして何ら復興してないじゃないかと言う人もいます。しかし地域の人とか生き様を見ると、数字で計れない元気さとか、明るさとか前向きさが伝わってくる。じゃあ今まで計ってきた復興の指標って何だろうと。まさに中越の復興が、そういう今までの数字で計る一律的な復興の定義に対して、新しい在り方を投げかけているような気がするんです。

中越防災安全推進機構 地域防災力センター マネージャー 河内 毅様 中越防災安全推進機構 地域防災力センター マネージャー 河内 毅様

古澤 では、元に戻るだけが復興じゃない、ということですね。

諸橋 しかも今は色々な活力が下がっているので、戻ったとしても結局右肩下がりの所に戻るだけです。であれば、もう復興の軸を変えるしかありません。そこが住民の前向きな姿勢だったり、地元の人達が始めた新しい動きだったりするのかもしれないですね。